3.11の書架 001 『魂でもいいから、そばにいて』

『魂でもいいから、そばにいて ―3・11後の霊体験を聞く―』(奥野修司著、新潮社、2017)

 

所感

私事からはじまって恐縮だが、2015年に母を突然死で亡くした。母は54歳だった。母の死を通して、東日本大震災への共感的理解がより一層深まり、最近になってやっと、突然死の乗り越え方・向き合い方や、死者との生き方をこの震災から汲み取りたいと思うようになってきた。

東日本大震災でたくさんの方が亡くなったことは知っていた。その一人一人に違う物語があることもわかっていた。だけれども、わかっていたようでわかっていなかったと気がついた。

この本はあくまでも、非科学的で根拠のない、だけど、みえるひとには確かにみえる、心霊体験のような、だけど温かいお話の集積だ。夢に出てくる、携帯が鳴る、天井や壁から音が鳴る、というものが多い。読む人によっては”まさか”だろうし、また違う人にとっては”わかる”かもしれない。東北だからこその死者との交流だと解釈される部分もあるが、わたしには馴染みがあるように感じた。

非化学的で根拠のないものの例として冒頭では「お迎え」について書かれている。死ぬ前に、その人が夢枕に立つとか、何かサインを出していると捉えられるのが「お迎え」だ。かつて比叡山にあった、天台宗の僧侶だった源信を中心とした結社では、

亡くなっていく仲間の耳元で、今何が見えるかと囁き、末期の言葉を書き留め(9ページ)

る文化があったという。この時に見たものが「お迎え」であったのではないかということだ。また、宮城県で在宅緩和医療のパイオニアとして二千人以上を看取ったという岡部医院の岡部健さんは、

うちの患者さんの四十二%がお迎えを経験してるんだ。(8ページ)

と語っている。昔から、少なくとも日本人には人が臨終を迎える際に、科学的には証明できないものを察知する能力があったのではないだろうか。亡きひとに、会えるのならば会いたいし、会えたときには怖いという感覚はなく、むしろ喜びがあるだろう。

震災と向き合う時に、札幌にいるわたしは、自分が何かする側でなければならないような錯覚に陥る。だけれども、そうではなくて、むしろ逆に、震災という未曾有の出来事から救われる、ケアされることがあるのだと感じる。様々な苦難を先に経験されている方々から、教えてほしい、救ってほしい、と思うこともある。

北海道札幌市生まれ。

東日本大震災を機に札幌にやってきた子どもたちとレクリエーション活動を行う「みちのくkids」を大学在学中に発足。代表の任務を終えてからは、旅行で東北に足を運んだり新聞や本、映画などで震災に触れ、自分の生活について再考している。2017年度より3.11SAPPORO SYMPO実行委員。