撮影紀行 005 ― さんざめく ―
この一帯は元来豊かである。そう見えた。
蛇行した此処は、立ち枯れそうな幾本もの、それでも松の高いのが残っており、川と海が雑じりあう。湿地として、生態系の原風景とでもいえるように、2月の水面は水の動きの少ない浅い深さのところでは氷が張り、これがないところでは越冬する渡る鳥が群れを成して浮かび、寒風の中なお美しく時を待っていた。
この蛇行の右の方、つまり南の方には、新たに造られた防潮堤の灰色が冬の湿り気の空気に身を冷やし、劣化することを知らぬ怪しさで皮肉に長く長く横たわり、どうしてもグレーに輝いている。その防潮堤の陸側には植樹された若い松がびっしりと置かれた木組みの中で過剰に守られ相当数あり、自生の若い美しく歪んで育つ松よりも余程未熟的にあり、風に抗うことで得るしなやかも、太陽と語る荒々しさも足らないような優等生の横顔で、皆同じような横顔で風に揺れている。
この蛇行のすぐそこは海につながっており、向こうの岸が見え、私の立っている場所から右側に大きく懐を持ち、これが湾を形成している。その向こう岸にもやはり防潮堤が磨き抜かれた鈍色を不自然に光らせた、やはりグレーの連なりで、陽を受け輝いている。
自然の本来や、必要程度の自然と人工のものとの共存は、静かでどこか美しく、或いは生き物の躍動を決して拒まぬあたたかな漠然が存在していることや、名付けられたり、定義付けられていなくとも、「ここで日がないちにち居てもよいだろうさ」と、そんなふうに思わせてくれるような温度や湿度があるように私は思う。
しかしどうだろう、この蛇行の周囲はあまりにも漠然たることを、自然の豊かを、人の手では作り出せぬ豊穣を、コンクリートのあれこれで、覆って、未来を忘れてしまってはいないだろうか。
そっと心で手を合わす。震災から7年が過ぎたいまも、かなしみの深さは私には思い及ばぬほど深く、安全であることを願うこころも、その土地に住んでいる実感でなければ量り得ないであろう。
唖然となるほどのコンクリートの壁や砦やが。
住民の意志が一番に重要である。それがわかっていてもなぜ、思うのか、やりすぎではないだろうかと、そう感じるのか。
水面のひかりだけさんざめく。
私のこころはかなしくなってしまう。
2018年2月 岩手にて
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