3.11から伝承すべきこと 001 |失いたくないものを知る

北海道に、日本海オロロンラインという道がある。

札幌から出発すると、途中、石狩市の厚田を過ぎたあたりからトンネルが続くところもあるが、景色が素晴らしく、運転をしていても飽きない。

海沿いを北上し最北端へ続く道。暑寒別岳などの山々の裾野が海へと続くことから、海岸沿いは断崖が続く。断崖が途切れたところには川が流れ、町や漁港がある。北上するにつれ、徐々に山が遠くなり、海岸線は海浜植物に覆われた列状の海岸砂丘が浜堤となり、丘陵とともに続いている。

視界が広がってくる。

電柱も電線もない道もあって、ふと、ひらけた視界に言い知れぬ開放感を感じる。

日常、知らないうちに圧迫感のある中に暮らしているのだ、ということを知る。

北海道天塩郡遠別町 撮影|2018/08

 

それともうひとつ。オロロンラインの景色に欠かせないのが、日本海の風を利用した風力発電。

石狩市にはじまり稚内に至るまで、何機の風力発電をみたのか。その数の多さと有機と無機が混在する景観によって、不思議な感覚にとらわれながら走る道。

 

北海道天塩郡幌延町 オトンルイ風力発電所 撮影|2018/8

自然と、人の営みと、発電システム。

かつてはこの発電システムがなく、自然と人の営みだけだったのに、という人もいるだろう。原発、火力、太陽光など他の発電システムに賛否両論、自然破壊論があるように、風力にもある。

ただ、はじめて訪れて、また来たい、と感じたのは、私が自然と人の営みと発電システムのコントラストに惹かれたからだと思う。

次元の異なる世界がレイヤーになってひとつの景色を見せてくれているような、人間の営みと欲が自然とともにパッケージングされているような、そんな感覚。

ずっとここにいて写真を撮り続けられる、そう思った。

 

北海道稚内市 撮影|2018/08

最近、見続けていた海には防潮堤があった。

2011年3月11日に震災が起き、津波が沿岸部を襲い、そして、福島第一原子力発電所の事故が起きた。

津波と原発事故は、天災と人災という二つの異なる要素を持っているかのように思えたけれど、被災沿岸部に建設され続けている岩手、宮城の防潮堤をはじめて見たとき、同じ要素を感じた。ここに人災が起きている、と私は思った。

巨大なコンクリートの壁ができることで、海からの風が変わり、山からの風も変わり、砂浜も変わり、海も変わる。

地域の生業である漁業はこの先の未来、どうなっていくのか。私でさえ感じる懸念を、地元の方々が感じないはずはない。

宮城県気仙沼市本吉町 小泉海岸 撮影|2018/02

宮城県気仙沼市本吉町小泉海岸。

今も建設途中の防潮堤のそばに「海が見える展望台」が仮設されている。

2月に訪れた時、展望台にのぼると、山から吹き降ろす風が防潮堤にぶつかり、砂塵を吹き上げていた。防潮堤を建設するために山から運ばれた砂や土が、煙のようになって視界を遮った。

8月に訪れた時、展望台にのぼると、海からの強い風が吹きつけていた。そこにのぼるまでは気がつかなかったが、展望台の階段を下りるに従い、風が弱くなり、地面に降り立った時にはほとんど風を感じなかった。

海風が、地を這わない。潮の香りがしない。

それだけではない。

知るべきは、一番に救われるべき被災した地元の人々が、心を痛めていること。

参考:https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201709/20170913_11010.html

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201709/20170914_11012.html

巨大防潮堤は、あらゆるものを分断する。

岩手県釜石市鵜住居 撮影|2018/02

北海道に置き換えてみる。

もし、オロロンラインが津波の被害にあったら、この美しい海岸線にもだれかが防潮堤をつくろうとするのだろうか。

それは「嫌だな」と思う。

今から25年前の7月12日、北海道南西沖地震による津波で大きな被害を受けた奥尻島には、当時、先進的津波対策と言われた巨大防潮堤がある。20年以上経った津波対策の「今」をそこに知ることができる。

奥尻では、人口減少とともに観光や産業の衰退、そして、維持管理できないまま老朽化する防災施設があるという。

参考:http://kouzou.cc.kogakuin.ac.jp/Open/地震工学資料/Mizuho-r130901region.pdf

震災後、「奥尻に学べ」という声があったものの、何を学んだのか私にはわからない。

防潮堤だけではない、海に続く河川も、超巨大なU字溝のごとくコンクリートで覆われ、海への出口には巨大な水門が作られている。

コンクリート建造物は出来上がってから劣化の一途をたどるので、人の手を離すことはできない。存在する限り、それらの維持管理は県や市町村の負担となる。

宮城県石巻市南浜 撮影|2018/02

石狩浜の砂丘は天然の防波堤。

北海道石狩市の「石狩海浜植物保護センター」WEBサイト を読むと、そう書かれている。自然と砂浜は海浜植物とともに天然の防波堤をつくり、背後を守ってくれる、ということだ。

被災沿岸部でも、防潮堤の建設が始まる前には海浜植物が再生をはじめ、植物たちの根によって砂がたまり、砂丘が形成されはじめたという。その頃の海辺の写真を見せていただいたことがあるが、とても美しい姿だった。

その美しさに「その頃に行きたかった」と思った。

でも、復興事業による大型車両の乗り入れや防潮堤建設作業により、今度は人の手により被害を受けることになる。

石巻市には、かつて湿地だった場所が宅地開発され、住宅地となった場所がある。日和山のふもと、南浜は津波により甚大な被害を受けた場所。津波により一帯の住宅が流出した後、かつての湿地の姿を取り戻そうとしていたそうだ。

生き物も戻り、植物も再生し、歴史に記されていた姿を見せはじめていたという。

今は、祈念公園建設のため、再びその姿は失われている。

宮城県仙台市荒浜 撮影|2018/02

津波により失ったかけがえのない命がある。

そして、津波が教えてくれたのは、私たちが誤った開発を続けてきたことへの警鐘でもある。その警鐘に耳を傾け、襟を正し、これからに向けて再考してこそ、亡くなられた多くの命に報いることだと私は思う。

悲しいかな、現実は、そうはならない。

ただ、ならないからと言って、終わりにはしない。

決してあきらめず、地元岩手、宮城はもちろんのこと、北海道からもこうした状況から学び、植生植物や環境を守るための活動や調査研究を続けている人たちがいる。同じ過ちを繰り返さないためにできることがたくさんある。

 

宮城県宮城野区岡田新浜海岸 撮影|2018/06

たとえば、防潮堤を砂丘に変えたい。

壮大な夢のようだけれど、実際に行ってみると、できるような気がする。

防潮堤の海側に植物が広がり、そこに砂がたまり、防潮堤を登りはじめている場所もある。

コンクリートの隙間にも、砂がたまれば植物が根をつけ育っていく。

宮城県宮城野区岡田新浜海岸 撮影|2018/06

 

宮城県宮城野区岡田新浜海岸 撮影|2018/06

震災後、海に一度も行ったことがない。

経験した恐怖感、大切な人を亡くした悲しみ、変わりゆく景色。震災後、海に行ったことがない人もいる。

海のそばに暮らしながら、生まれてから一度も海に行ったことがない、という子どももいると聞く。

だけど、海は、とても大切なところだ。近くにありながら、一人ひとりから失われたままにしてはいけない場所だと思う。

自分たちの暮らす場所で、当たり前にあって、絶対に失いたくないものや失ってはならないものがたくさんある。けれど、あって当然のものを失う、という想像を、日常の中ではなかなかできないものだ。だから、失って初めて気づく。

絶対に失いたくない、と思うには、「失いたくないものは何か」「ここに必要不可欠なものは何か」、ということを認識しなければならない。

当たり前すぎると、なくなることを想定できないから、守ろうという気持ちも生まれないのだろうな、と、自分に置きかえてみて思う。

自分がそうだ、と思う。

そして、そういうものは意外と、外から訪れる人が教えてくれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

北海道札幌市生まれ。東京造形大学卒業。

2007年までアンティーク家具修理に携わる。東日本大震災後、北海道NPO被災者支援ネットに所属。2017年より3.11SAPPORO SYMPO実行委員会 実行委員長。